脳がわーっとなった時の自分なりの対処法

 脳がオーバーヒートしてる時がたまにある。ひたすら忙しなく動いているというか、なにを考えてるのかわからないがとにかく動いている感じがする。そして疲れる。ググってみるとそういう事がある人は他にもいるようなので、そうなった時の自分なりの鎮め方を書く。ただ、このわーっとなる感覚が全く同じものなのかはわからないので、これが全ての人には通用するかはわからない。

 

 用意するものは再生速度を変えれる音楽プレーヤー。
 自分の場合、ウォークマンにアプリを入れて再生速度を変えれるようにしている。

 やり方は音楽のテンポを脳の騒がしさと同じになるように調整して、それをイヤホンから垂れ流しつつ横になる。それだけ。直ぐに回復する訳ではないがある程度楽にはなる。自分の場合テンポはだいたい4倍速、1.8倍速あたりが自分には丁度良い。それからなんとなく曲が早く感じられるようになったら、再生速度を落としつつ横になる。再生速度が未編集状態になったら、7割程回復して動けるようになる。

 コツとしてはあまり曲の歌詞などは意識しないこと。今ここら辺だなくらいを感じ取るくらい。

 

 問題は外出先などで急に襲われたときに使えないこと。人と話しているときなんかは特にそうで、いきなり目の前でイヤホンをつけられて横になられたら大変なことになる。

 そういうときは、応急処置になるが機会を見てしばらくの間目を瞑ることに自分はしている。ある程度は良くなる。自分は。

 あと、手の平同士を叩くことで「パンッ」と音を出してスイッチを切り替えること。これは切り替えるイメージとか訓練とか少し練習も必要だったが、少しは使えるようになった。

正解というものを求めたらキリがないんじゃないかと思った

 タイトルについてのことを普段の生活で思うことはありつつも、何度か忘れてドツボにはまってしまうので忘れないためにも書いておく。

 

 結論から書くと、正解以外は不正解という考え方は選択肢を減らさざるを得ないのではということ。

 この考え方は当てはまらないもの、というよりも当てはめてはいけないものもあるとは思う。むしろ逆で、不正解以外は正解になる場合はあると思うし、個人的にはこちらの考え方の方が好きだし増えて欲しい。

 

 

 今回書いておきたいのは人生観だとか価値観とかについての話で、正解以外は不正解という考え方に自分の人生が邪魔されてる気がしたからだ。

 例で言うとブログの文章の構成の仕方。ネット上にはたくさんのブログがあって沢山の文法で構成されている。長い文章を書いて載せている人もいれば数行で終わる文章を一つの記事にしている方もいる。語尾についてもそうで、〇〇であるのような語尾の人もいれば、〇〇ですねという語尾の人もいる。クソワロタだとかキマシタワーのようなネットらしい文章で構成する人もいる。自分は長い文章を書いているが、これは長い文を書く訓練をしたいと思うと同時に、ブログで文章を書く際には長文が一番活かしやすく思えるからだ。数行で終わる文の場合はtwitterでいいのではと思うし、画像を中心にするのであればそれもtwitterでよく思えてしまう。ただ、長文をSNSで書こうと思うとそれは難しいように思う。語尾については単にこの淡白な感じのほうが自分には合っていると思うし、ですます口調にするとなると以前のブログでですしか使わなくなり見づらくなった記憶があるためだ。

 と、理由はあるのだが、最近語尾を変えた方がいいのではと思うようになった。というのも読んでいて堅苦しいように思ったからだ。実際自分は物腰の柔らかい人間ではないし、ユーモアは無い。だから、このままでも良いのではとも思いはするものの他の方のブログを見ているともう少し親しみやすくしてみたく思うのだ。で、これが単なる興味のうちり変わりならばいいのだが、少し脅迫観念を含んでいる気がするのだ。だから多少なりともストレスは溜まる。

 なので下書きではあるもののやってみたところすごく悩んでしまいグダグダになってしまったので、今の状態になんらかのアレンジは入れてみたくは思う。

 

 

 ネットでの文章の場合はネットという凄まじい規模で、凄まじい人々の価値観が集まって文字や画像で自由にいろいろとできるためこうなっているのだと思う。ただ、これが現実世界の個人だったり数十人の集まりだったらどうなるんだろうか。

 個人の場合は自分の選択肢を狭めてしまい、悩みの種が増えてしまう。もちろん、自分で決めたルールを守ったり、これ一筋でいきたいという気持ちで行動してみるだとかは楽しいことだと思う。ただ、こうしないといけないという考えに囚われるようになったら上手くいっていない行動を延々繰り返すことになるので、面倒にはなるだろう。個人的にこれが最近多くなってきてしまって自分で選択肢を狭めてしまっている気はするのでこの記事を書いた。

 複数人だとか何十人だとかの集まりになるとこれまた面倒な話で、たまにこうでないといけない!!と他の人に価値観を強要する人や人たちがいる。この目的のためならばこっちの方がいいのではという代替案を提示したりしてみても大体は否定される。なんとなくだが、ならないというような固定化する言葉を使う人にはそういう人が多いようには思う。暗黙の了解というのも似たようなものだろうか。

 

 と、書いてみたが要はこうしなければならないという考えはいろいろ迷惑を自分や他人、あるいは両方にかけることがあるので考え直したいという話。正解でもなく不正解でもないグレーゾーンでも許容できるようになりたく思う。

 とはいえなんでもかんでも臨機応変に動けて、自分の気持ちをすっ飛ばして行動を移せれば苦労はしないと思う。

 

コンサータを飲みはじめた話

 プロフィール欄に記入してあるが自分は発達障害持ちだ。ADHD自閉症スペクトラムの二つがあると診断されている。そのうちのADHD側の薬としてコンサータという薬がある。その薬を服用するようになり1日が終わったので、そのことについて書いておく。

 一応、コンサータをこれから飲むことになった、既に飲んでいる、身内が飲むことになったなどで読む方は、個人差というものを念頭に置いていただければと思うし、こういったことで何かあれば医療機関に問い合わせをしたほうが安全かと自分は思う。

 

 先日病院で診察を受けたのだが、それまでに服用していたストラテラを止めるかどうかについての話になった。

 理由はいくつかあるのだが、担当の先生にはどうにもストラテラが効果的に効いているようには見えなかったためだ。朝起きれないため睡眠外来を受診しているのだが、未だに遅刻をしてしまう。朝起きれないことに加えて、準備で手間取ったりすることもあり、よく時間外での診察になる。起きれないことに関してもADHDが原因であると診断を受けたのだがそれがほぼ治っていないのだ。

 実際、自身もストラテラの効果はほとんど感じれていなかった。自覚がないだけかもしれないとの指摘は先生からはあったのだが、あい変わらずぐるぐる思考が渦巻くことはあったし、いろんなことがつまらなく感じてしまっていた。楽しい!と思えても刹那的で集中もし辛いので続くこともあまりない。金銭的な面でも負担になってはいたので服用はやめたいと考えていた。

 加えてしばらく病院に行けていなかったこともあってストラテラを飲めていなかった。ストラテラが体内に残っていないのならば、ちょうどいい機会だし飲んでみてはどうだろうかとなったのだ。

 

 結果、コンサータを服用することになった。朝食後の服用となった。

 今朝の10時に飲んでみて、それ以降作業をしていたのだが、だいぶ効果は感じられた。

 まず、作業に集中出来た、気付いたら夕方になっていた。ここ最近は集中できるものというとゲームくらいしか無かったが、自分からゲーム以外の何かをして何時間も作業できていたというのは本当に久しぶりだった。少なくともここ1年は感じていない。

 飲んでから1時間か2時間程から何か頭がそわそわするような感じもあったが、すごく頭がクリアになったような感じはあり、思考のごちゃごちゃも曇り具合もなく、今現在ものすごく文章が書きやすい。(数件しか記事がないが)記事を書くとなると以前は、まず頭に浮かんだことをひたすら書きだして、それが終わったら何を書きたいのか見失わないように確認しつつ脱線部分を修正し、文章を再配置して…と、特に一度全部書き出すことをしないと脳がパンパンになっていくだけだったが、今は文章を書きつつ文章の再配置について考えることもできる。修正をするたびに今自分は何のために修正をしてるのかだったり、先ほどまでの自分は何を考えているのかわからなくなったりしたので、記事を書くだけで少なくとも1週間以上はかかっていたが、これなら数日で終われるように思う。見通しの悪さが改善されていればの話だが。

 夜になって薬が抜けたせいか急にだるくなった。なので横になったのだがすぐに寝てしまった。過眠は最近は出ていないが、10時間以上寝た。また、自分は中学時代の友人とトラブルがあり、できれば謝りたいとは考えつつも未だに出来ていないのだが、夢の中で謝るための約束を何度もしていた。いつもなら謝ることも忘れてのほほんと過ごしてしまうが、今回は相手と会えなくなっても自分からまた約束をしに行っていた。結局謝る前に起きてしまったのだが。

 あとは体と頭が少し軽くなったのと、1日中貧乏ゆすりをしていたことだろうか。貧乏ゆすりをするのは無くは無かったように思うが、今日はやたらとしてしまう。 

   1日が終わり非常に過ごしやすくなったが、同時に虚しくもなった。発達障害がなければもう少し楽に、前向きに生きれたのではと考えてしまうのだ。過ぎたことは仕方がないことなのだが、今まで出来なかったことが飲んだだけでだいぶ改善したのだから今までの努力はなんだったのだろうかと思う。もともと気の持ちようで解決するような考え方は嫌いだったし、頑張るにしてもそのやり方や方向性を重視していたが、飲むだけで改善してしまった。上記の夢の話も、中学以来よく夢に出るのだが、謝れた記憶はない。謝りたいとは思いつつも楽しく過ごしてしまうことばかりだ。10年近くの夢にも変化が現れて、思考に変化がありすぎて逆に不安にもなった。いや、無いよりはマシだとは思うが。

 

 と、書いてきたが非常に楽に過ごせるようになった。デメリットも今の所感じられない。おそらくこれから頼りにするだろう。

 

 

 念のために書いておくが、上記の作用というのはコンサータだけのものかはわからない。しばらく昼夜が逆転していて日の光を浴びれていなかったが病院に行く際にだいぶ浴びることになって安心感を得たことも影響しているかもしれない。ポケモンGOという新しい遊びに出会えたからかもしれない。一昨日珍しく目標を立てて能動的に動くようになったからかもしれない。いろんな要素が組み合わさっているし、単に調子がいいだけかもしれない。それにこれは飲み始めて1日目の話で、これからどうなるかはわからない。副作用が何か出てやめることになる可能性だってある。薬は個人で効果の出方が異なるようなので、あくまで参考程度にとどめて欲しい。

どうしようもないことには「認めさせる力」が必要なんじゃないかと思った話

 

 

  自分が発達障害だと診断されてから1年ほどが経過しただろうか。あれから様々なことを考え、調べてきた。ADHD自閉症を持つ人々の特徴はどのようなものなのか、その原因はなんなのか、これから自分は生きていけるのだろうか、生きるにしても満足できる生き方をするにはどうすればいいのか…。

  ネットや本で障害について調べていく中で今様々な「障害」と呼ばれているものが問題提起されていることもわかった。LGBTサイコパス、パーソナリティ障害などなど。調べるといっても、多少かじっただけの自分が持っている知識は誤りだらけだとは思うし、実際にそういった方々とわかっている人に会ったことも無いから現実味の欠ける知識でもあるようにも思う。

 

 ネットでも本でもそういった人達に対して否定するような意見は見かける。特にネットは、ネットである以上そういった情報は多く見られる。自身に対して否定的になっていた時期に読むことが多かったせいか、ネガティブな気持ちになってしまったが、その中で「認める」ということの持つ力は重要なのではと考えるようになったので綴る。

 

 

きっかけがなければ理解できない

 これらの考え方や捉え方に関する障害、そして脳に関する障害というのを意識するようになったのは発達障害を診断されてからだ。それまでは外からやってくる情報(例えばテレビ番組の特集や、学校の講義など)でしか得ることが無かったが、それまでは一切知らなかった。

 ネットにこういったことはいくらでも転がっている。だから自分のように調べようと思えばいくらでも調べることはできる。ただ、問題なのは一般人と呼ばれる人々がそれを調べようとする、いや、知ろうとする意識があるのかとういうことなのである。

 人は知らないものや出来事に対しては警戒心を持つ。だから知るきっかけが無いものについてはいつまでもそれに関する知識が無い。その状態で自分が知らない、理解できない存在に出会ってしまったら保身のため遠ざかろうとする。自分の心身を守ろうとしているのだから分からなくは無い。

 

 

 「世の中」が求める「普通」とはなにか

 一般人というのは人によって見解が異なる非常に曖昧な言葉のように思う。普通に進学ができて、普通に結婚をして、普通に子供が生まれて、普通に老後を過ごすことができて普通に老衰で亡くなる。ライフステージに関することだけではなく、普通に友人関係を築けて、普通に異性との関係も築ける。ほかにも普通に食べ物を食べれて、普通に動物と触れ合えることが出来て…。

 

 自分にはこの「普通」というものはあまりにもハードルが高いように思う。自分の場合、「自分が定義する世の中」にある「普通の人が出来て普通では無い自分にはできないこと」のひとつとして、時間管理ができないということがある。時間管理というのは今の日本では当然のように求められる能力だ。

 義務教育の時から、教えられなくとも訓練されることだ。自分の小学校時代のスケジュールを確認してみると、朝の6時に起床し、6時半までに朝食などを済ませ、7時までに集団通学の集合場所に行き、8時までに学校に着き、そこからは40分単位での授業があり…とよく管理されていた。登校までの時間はある程度変動があってもよかったようには思うが、学校に着けばあとは学校の教師やチャイムが時間管理をしてくれる。ただ、問題はこれ以外の時間だった。当時は母親がいろいろと世話をしてくれたおかげか、それほど大変なことにはならなかったが、朝の支度であれがないこれが無いと言ってほぼ母親を怒らせていた。夏休みの課題も順調に行けば余裕を持って終わらせれていたが、興味を持てないものに対してはほぼ終わりの頃にまとめて終わらせていた。

 今は朝起きることが難しいということであまり満足できていないし、休学になってしまった。上記の小学生時代から朝は苦手で、学校がある日はほぼ両親に起こしてもらっていたが休日は昼まで寝ているのが日常だった。午前中に起きれば驚かれていた位だ。それが今頃になって問題になった。

 朝起きることができずにいるのは発達障害由来の時間管理能力が原因と病院の医師には言われた。発達障害はある程度カバーできても、健常者とまったく同じ程度まで能力を培うには難しいそうだ。念を押しておくが「ある程度は」だ。「完璧に」ではない。

 

 

 

認める力

 世の中で求められる「普通」。これを遂行できる能力がある前提で普通の世の中は成り立っている。集団意識が強いと日本は言われており、その普通のレールから外れてしまえば困難に直面してしまう。そしてそれを普通と呼ばれる状態に変えていく、治すことが出来ないのであれば別の道に進むしか無い。

 そして、道を選び、歩を進めようとしたところで拒む存在がある。他人だ。この別の道に進みことは難しいことだ。普通ではないのだから、世の中で通じるノウハウは通じないし、それに関する情報も少ない。成功する可能性もあるわけだが、失敗のリスクは高い。ノウハウがある普通の世界に浸っている人たちから見たら別の世界に行こうとすることは危険極まりない行為でそれを止めようとする。それは彼らにとっての安心につながるからだ。本人はそこにいるからこそ、不安を覚え、危機感を感じるのだ。いくら対処しても不安を拭えない場所に居座り続けるのは、余計に自分を追い詰めることを知っているにも関わらず。しかし、本人以外の人たちはそれを知らない。

 自分自身に対しても同じことは言える。自分が何かしらの欠点を持っていたとしても、まずそれを持っているものだと認識しない限り問題解決には至らない。いくら否定をしたところで無くならないものはそこにあり続けるのだ。認めようとしない自分にも認めさせると途切れた道からルートを変更することができる。

 自身が折れてしまいその場に居続けても変化を起こせないのであれば、変わらないのだから、誰かは現状に不満を持ってしまうし、ストレスも不安も溜まる。共存を選択するならば、変化を起こさせ、認めさせるしか方法は無いように思う。

人は所属しているもので見ないほうがいいかもしれないと思った話

 先に書いておくが、自分は正社員として働いた事は無い。アルバイトはしていたがそれは過去の話で今は学業の方に専念している。

 

 どこかに出かけるとほとんどの場所で職業名を背負っている人に出会う。例えばスーパーに出かければ店員や警備員、学校に行けば教員や事務員などである。

 自分は出かけた先で時たま、人と話すときにはその役職に就いている一人の人間ではなく、その役職に話しかけているのではないかと感じる時があるのでそのことについて綴る。

 

続きを読む

悩むという行為は解へのプロセスであるかもしれないという話

 記事の題名を読むと「そうとしか言えなくないか?」と思ったかもしれないが、実は悩む=解と考えている人がいるのではないかと思ったので書いておく。

続きを読む

入院して家での生活の気楽さを感じた

 二つ目の記事から少し湿っぽい記事になってしまうが、書いてしまう。

 

 自分は約一月ほど前から入院生活をしている。

 基本的に用事のある日に病院から出て、用事が終わったら病院に戻るという生活をしている。今日は用事が無いので下宿に戻ってきた次第だ。病院生活には慣れたがやはり一時的にとはいえ下宿に帰っての生活というのはすごく安心するというか、ありがたいもののように感じられた。なので、簡単にそのあたりを綴ることができたらと思う。

 入院といっても「どの病棟で生活するのか」「期間はどのくらいか」「個室か相部屋か」など様々なので、「精神科閉鎖病棟の相部屋に睡眠障害で入院した」一人の患者が書いた記事だということを最初に理解していただきたい。

 

 

続きを読む