あけましておめでとうございます。気づいたら2016年が終わってました。

 

去年は鬱になったり睡眠障害だったりで大変だったけど、今年は鬱を優先的に治せればと思います。ただしあまり焦らずゆっくりと。

 

あと、ブログに関しては文体を柔らかくしてみようと思う。ただ、ですますはあまり使わない感じで。淡々とした雰囲気を目指して書いていたけれど、それに囚われて筆が進まずということが多くあまり記事を書けずにいたのは防ぎたいところ。ネタがあまりないのもあったが。

心の中にいる子供を育てることにした

 1ヶ月ほど前に自分の中にまだ精神年齢が追いついてない部分があり、それに気づかなかったため苦労してきた部分が多かったのではと思うことがあったので書いておく。 

 

 表層部分にある自分のことを自分、と考えて今までの生きてきたが、1ヶ月ほど前に自分の奥にいるもう1人の自分がいるのに気がついた。幼児期の自分というべきか、子供っぽい心だった。自分でもなんといったらいいのかわからないし目に見えないが、とりあえずそう呼んでおく。

 

 

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

 

 

 どことなく自分の考えは幼い部分が多いと思ってはいたものの、気づいたきっかけは上の作品の中のあるシーン。そのシーンは親の機嫌を気にしすぎるがあまり自分の本心を無視してきたという場面。自分の本心を大切にしないでいたので、なにか思っても自分を否定する自分が現れてそれが毎日続くから、自分はダメな人間なんだと自尊心が低くなってしまうようなことが書いてあった。漫画形式で絵も入っていて説明してくれているのですごくわかりやすいのだが文章だとなんとも伝えにくい。かといって漫画の写真をとってあげるわけにもいかず…。

 他の人からはしっかりしてるだとか、真面目だとか評価を貰うことは多い。実際真面目な性格ではあるように思う。ただ、どこか違和感を感じていた。

 その正体が奥にいた自分だった。具体的には忘れたが、なにかもやもやしているときに実は心の奥で駄々をこねている自分を発見した。なんというか、奥の心と表層面の心の精神年齢がかけ離れているというか、そんなことに気がついた。実際自分は何かお願い事をされても、内心嫌だと思っていてもあまりはっきり断れず、押されてしまうと了承してしまうことは多い。我慢もよくしてきたと思う。他人の目を気にすることは多いし、このことはいろんな人に言われた。

 

 それからは心の奥で何か言ってるときは語りかけるというか、対話するようにはしている。何か言っていたら聞いてあげて強制したり黙らせようとはせず、納得するまで説得や説明をしたり、同調や心配をかけたりして、なにか成功したりやり終えたら褒めて大事にしようと思う。あと、とにかく否定したいだけの、根拠のない否定をする自分が現れたらできる限りそうしないように説得などはしてみようと思う。たぶん、攻撃されてばかりになるとだるくなったり落ち込んだりするのでこっちの方が重要かもしれない。

 

 書いていて多重人格なのでは?と思ったりもしたが、詳しいことはよくわからない。とりあえず、奥にいる自分には寄り添ってあげて、見守ってあげようと思う。

作品は私に生きる力を与えてくれる

 記事の通りではあるのだが、最近いろいろな制作物に触れている中で自分は創作物にずいぶんと助けられているなと思うことが増えたのでそのことについて綴っておく。

 一応。創作物というのは身の回りに溢れていて、今見ているPCやスマートフォン、机や住んでいる家なども、人が考えて作っているものだから制作物であると自分は考えている。ただ、この記事で自分が扱うものは本や漫画、ゲーム、音楽などそういったものが中心になる。

 

 まず生きる力を与えてくれるというものについてだが、3種類ある。

 

 1つ目はストレス軽減。これはわかりやすいと思う。なんとなくもやもやが溜まっていたりどうしても物事が上手くいかないときなんかはゲームをしたり本を読んだりして夢中になる。行き詰まっている考えを一度放置するというか、その考えを頭の中から空にしてくれるのだ。後で考えてみるとすっきりとした考えになっていたり、別の考えが浮かんだりして新しく糸口が見つかったりもする。何かに集中してそのことで頭をいっぱいにする、夢中になるというのはそういったごちゃごちゃした思考を整えてくれるように思う。

 それと、これもストレス軽減には入ると思いつつも若干軸が違うような気がするが、自分に同調してくれるというのもストレスを減らしてくれているように思う。鬱な気分の時には漫画を読む。活気あふれた内容のものではなく、どこか影を含んでるようものを読むと自分に重なって見えたり慰めて見えたりで、気分をゆっくりとだが落ち着かせてくれる。

 

 2つ目は得るものがあるということ。上記のことも何かを得るという点では同じだが、こう、時たま思い出したくなるような言葉や場面というのは生きている中で助けになってくれることは多い。登場人物の言葉を思い出して新しいアイデアを得たり、作中のやり取りを見て新しい知識、考えに触れるなど、あまり意識はしていないが気づいたら助けてもらっている。

 

  3つ目はこれからもこの作品がある限り自分の人生は生きる価値があるものだと思えること。これはtwitterでも見かけることではあるが、この作品の続きが見たいからこの先も生きていきたいと思えること。なんだか大げさな表現ではあるが概ねこれである。もちろん、その作品が終了したらすぐに生きるのをやめるかというとそういうわけではないし、その作品が終了しても他に楽しみにしている作品があればその作品の続きが生きる楽しみになる。来月にはこのシリーズの新作が出るからそれまでは生きてそれを楽しみたい、それまでは生きたいと思えるのだ。

 

 

 上記のことは作品を受け取り側に立ったときのことで、制作する側になったときはまた別の、力の源になるようなものがあると思うがそれは今回は扱わないでおく。

 

  

 

 

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

 

 ぱっと思いついた好きな作品だと上記の2点。

 星のカービィシリーズは幼少期から触れてきた作品だが、ロボボプラネットはお気に入りだ。世界観がシリアス寄りになりいつもの星のカービィとは少し毛色が違う。ラスボスはビジュアルが幾何学的な美しさがあり、曲も勇気をくれるようなもので、こういったアイデアが思い浮かび実現させられるスタッフさん方は尊敬する。

 少女終末旅行はWEB上で連載している漫画のひとつ。荒廃した世界をチトとユーの2人の少女が旅をするという内容。ほとんど人は見かけない、あとは消えゆくしかないような世界の中で、悲観せず生きていく。ただ、いずれ自分達も消えるということを受け入れてるような節目を見せてくれる場面があり、生や死、生命とはなにかという人が生きる上で基礎となるようなものに触れるシーンもあり、よく読み返している。

 

祭りの音がしんどい

 タイトル通りなのだけど、祭りがしんどい。自分が住んでいる地区は今週祭りがあって、太鼓の音や人の声がよく響いた。そんな時に限ってなのか、そんな時だからなのか身体がだるかった。

 

 特に太鼓の音がきつい。バイクの音でも思うのだが、肺を振動させるタイプの音は苦手で、イヤーマフすら貫通して聞こえてくるのだから横になっていても耳に届く。低い重低音というのは調子が悪い時にはきつい。

 

 まあ、これはイヤーマフとイヤホンで凌げるから大丈夫ではあるのだが、人の声も少し苦手で、元気ハツラツな掛け声や盛り上げるような声はしんどいときには聞きたくはない。

 

 祭りは前夜祭含めて3日しかないし、街の賑わいにはなるのだろうけど、静寂を好むような人や、平日の勤めや通学から休日に癒しを求める人には3日もある面倒なイベントなんだと思う。実際、ネットで検索をすれば祭りが嫌いという意見は沢山見られる。

 

 それに今の祭りはなんとなくだが、騒ぎたい人が騒ぐようなそんなイベントに見えなくもない。勿論、実感がないだけで地域の過疎化を防いだり、思い切り騒げる場所でガス抜きをしていたりという側面もあるのだろう。だが、伝統だからという理由で騒ぐことを目的にするのも違和感は感じるし、それなら伝統であるという理由ならばある程度のことは許されてしまう。騒ぐことが目的なら別の場面でもいいようにも思うし、新しくそれらしいイベントをつくるのもありだろう(そこでどう言われるかはわからない。それにガス抜きがイベントでしか出来ないというのも問題な気はする)

 祭りを廃止しろなんてことは言わないが、なんというか本来の目的を見失った、近所の祭りは目的のないイベントに見えてしまった。

 

発達障害が誤診だった話

 発達障害の内のADHD(注意欠如多動障害)と診断されていた自分だが、実家に帰省するに伴い病院を変えたところ、ADHDではなくうつ病だと診断された。

 

 正直、複雑だった。

 もちろん、障害は無いに越したことは無い。特に発達障害は脳の構造の問題で、先天性とされているため治すということは不可能。つまり一生その問題と付き合っていくことになる。

 それの心配が無くなった…というのは正確では無く、発達障害は白黒で分けれるものではなく誰しもが持ちうるものであるらしい。なので減った、と書いた方が正確だろうか。それにと、診断されてから考え込むようになったあの時間はなんだったのだと思ってしまう。そういった今の医学では完全な治療は難しいものを抱えつつも生きる人たちの経験や苦痛を数パーセントにも満たないかもしれないが考えることは出来たので、得たものはあった。

 ただ、やはり発達障害と診断されてから約1年間はこれからどうこの障害と付き合っていけばいいのか、社会的にこれから生きていけるのかと悩んで、大学の教授や相談員の方々に心配をさせてしまったのは、もしかしたら、誤診がなかったのなら無かったのかもしれないと心のどこかで考えてしまう。

 

 過去のことばかり考えても仕方がないのはわかるがそんなことを思う。

 ちなみに今はイフェクサーという薬を飲んでいる。薬のおかげなのか実家に帰って人と話せる環境に来たおかげなのかそれなりに回復はしたように思う。たまに虚無感に襲われる時はあるが。

 

 

 2017/8/22 この記事にアクセスされる方が多いようなのでどういう経緯で診断に至ったかをまとめました。

 

ymum.hatenablog.com

 

脳がわーっとなった時の自分なりの対処法

 脳がオーバーヒートしてる時がたまにある。ひたすら忙しなく動いているというか、なにを考えてるのかわからないがとにかく動いている感じがする。そして疲れる。ググってみるとそういう事がある人は他にもいるようなので、そうなった時の自分なりの鎮め方を書く。ただ、このわーっとなる感覚が全く同じものなのかはわからないので、これが全ての人には通用するかはわからない。

 

 用意するものは再生速度を変えれる音楽プレーヤー。
 自分の場合、ウォークマンにアプリを入れて再生速度を変えれるようにしている。

 やり方は音楽のテンポを脳の騒がしさと同じになるように調整して、それをイヤホンから垂れ流しつつ横になる。それだけ。直ぐに回復する訳ではないがある程度楽にはなる。自分の場合テンポはだいたい4倍速、1.8倍速あたりが自分には丁度良い。それからなんとなく曲が早く感じられるようになったら、再生速度を落としつつ横になる。再生速度が未編集状態になったら、7割程回復して動けるようになる。

 コツとしてはあまり曲の歌詞などは意識しないこと。今ここら辺だなくらいを感じ取るくらい。

 

 問題は外出先などで急に襲われたときに使えないこと。人と話しているときなんかは特にそうで、いきなり目の前でイヤホンをつけられて横になられたら大変なことになる。

 そういうときは、応急処置になるが機会を見てしばらくの間目を瞑ることに自分はしている。ある程度は良くなる。自分は。

 あと、手の平同士を叩くことで「パンッ」と音を出してスイッチを切り替えること。これは切り替えるイメージとか訓練とか少し練習も必要だったが、少しは使えるようになった。

正解というものを求めたらキリがないんじゃないかと思った

 タイトルについてのことを普段の生活で思うことはありつつも、何度か忘れてドツボにはまってしまうので忘れないためにも書いておく。

 

 結論から書くと、正解以外は不正解という考え方は選択肢を減らさざるを得ないのではということ。

 この考え方は当てはまらないもの、というよりも当てはめてはいけないものもあるとは思う。むしろ逆で、不正解以外は正解になる場合はあると思うし、個人的にはこちらの考え方の方が好きだし増えて欲しい。

 

 

 今回書いておきたいのは人生観だとか価値観とかについての話で、正解以外は不正解という考え方に自分の人生が邪魔されてる気がしたからだ。

 例で言うとブログの文章の構成の仕方。ネット上にはたくさんのブログがあって沢山の文法で構成されている。長い文章を書いて載せている人もいれば数行で終わる文章を一つの記事にしている方もいる。語尾についてもそうで、〇〇であるのような語尾の人もいれば、〇〇ですねという語尾の人もいる。クソワロタだとかキマシタワーのようなネットらしい文章で構成する人もいる。自分は長い文章を書いているが、これは長い文を書く訓練をしたいと思うと同時に、ブログで文章を書く際には長文が一番活かしやすく思えるからだ。数行で終わる文の場合はtwitterでいいのではと思うし、画像を中心にするのであればそれもtwitterでよく思えてしまう。ただ、長文をSNSで書こうと思うとそれは難しいように思う。語尾については単にこの淡白な感じのほうが自分には合っていると思うし、ですます口調にするとなると以前のブログでですしか使わなくなり見づらくなった記憶があるためだ。

 と、理由はあるのだが、最近語尾を変えた方がいいのではと思うようになった。というのも読んでいて堅苦しいように思ったからだ。実際自分は物腰の柔らかい人間ではないし、ユーモアは無い。だから、このままでも良いのではとも思いはするものの他の方のブログを見ているともう少し親しみやすくしてみたく思うのだ。で、これが単なる興味のうちり変わりならばいいのだが、少し脅迫観念を含んでいる気がするのだ。だから多少なりともストレスは溜まる。

 なので下書きではあるもののやってみたところすごく悩んでしまいグダグダになってしまったので、今の状態になんらかのアレンジは入れてみたくは思う。

 

 

 ネットでの文章の場合はネットという凄まじい規模で、凄まじい人々の価値観が集まって文字や画像で自由にいろいろとできるためこうなっているのだと思う。ただ、これが現実世界の個人だったり数十人の集まりだったらどうなるんだろうか。

 個人の場合は自分の選択肢を狭めてしまい、悩みの種が増えてしまう。もちろん、自分で決めたルールを守ったり、これ一筋でいきたいという気持ちで行動してみるだとかは楽しいことだと思う。ただ、こうしないといけないという考えに囚われるようになったら上手くいっていない行動を延々繰り返すことになるので、面倒にはなるだろう。個人的にこれが最近多くなってきてしまって自分で選択肢を狭めてしまっている気はするのでこの記事を書いた。

 複数人だとか何十人だとかの集まりになるとこれまた面倒な話で、たまにこうでないといけない!!と他の人に価値観を強要する人や人たちがいる。この目的のためならばこっちの方がいいのではという代替案を提示したりしてみても大体は否定される。なんとなくだが、ならないというような固定化する言葉を使う人にはそういう人が多いようには思う。暗黙の了解というのも似たようなものだろうか。

 

 と、書いてみたが要はこうしなければならないという考えはいろいろ迷惑を自分や他人、あるいは両方にかけることがあるので考え直したいという話。正解でもなく不正解でもないグレーゾーンでも許容できるようになりたく思う。

 とはいえなんでもかんでも臨機応変に動けて、自分の気持ちをすっ飛ばして行動を移せれば苦労はしないと思う。