〇〇するべきじゃなくて〇〇したら(もっと)良くなるよと言ったほうが気楽になれるんじゃないだろうか

 今回の記事を簡潔に言うと「〇〇するべき」という言葉、語尾は自分は好きじゃないですという内容。

 

 〇〇するべきというタイトルをよく見かけるようになった。

 グーグル検索での検索結果では特に出てくる。次は書籍でその次はテレビだろうか。社会人なら守るべきマナーだとか、日本人なら読んでおくべき〇〇の書籍だとかよく見かける。WEBに限った話ではなく、本のタイトルとしても「べき」という言葉はしばしば見かけるし、日常の会話や大学の講義でも聞くことはある。

 

押し付けに思えてくる

 正直この「べき」という言葉は押し付けがましく思える。

 これをやっておかないと後々置いていかれるけど大丈夫なの?とかこれをやらない奴はそれ名乗る資格ないよねといったような不安を煽るような、基準、0からマイナスしたような意味を感じてしまう

 使っている側からしたらそんな意味は含めてはいないとは思う。これをやっておいたらすごく楽になるからやっておいたほうがいいぞだとか、これを持っておくとすごく楽になるぞだとか、そういう意味合いなんだろう。けれども、この「べき」という言葉がつくだけで上記のような不安を煽るようなことを自分は感じ取ってしまう。 

 そもそも全く同じ価値観の人間は存在しないし、すべての方法がすべての人に通用するとは限らない。共感する部分が多くあったとしても共感できない部分というのは多少なりとも存在する。そこが存在する限り無理に考えや主張を押し付けようとは自分は思えない。

 価値観ではなくルール、規則の場合は別の考え方になるだろうが、共通する部分は同じように思う。集団で過ごす以上全員が好きに動いていたら共同体として動くことは難しくなるためルールというものがある。だからこれは〇〇するべきだという意見を聞くことはある。そういった場面ならば理にかなっているとは思うが。たまに何故そうすることをせねばならないのかを関係なしに、ただ強制する人がいる。まあ、これは言葉というよりもその人のやり方に問題があるように自分は思えるが、ただ強制するというのはお互い損だろうし、相手に説明する必要があるだろう。

 

 選択肢を狭める

 それに〇〇するべきだ、となったときには「この選択肢以外は有効ではない」という意味合いに自分は聞こえてしまう。考えが捻くれているような気はするものの、そう聞こえてしまう。他の選択肢は有効とは思えないということになり、選択肢は一つになる。そうでない人からみたら他の選択肢も浮かぶのであろうが、この言葉がつくだけでその考えを浮かばせる余裕もなくしてしまうように思う。

 

 思ったよりも自分がこの言葉が嫌いな理由がなかったけれどもだいたいこんなところだと思う。

 もちろん、「だからこのべきという言葉は使わないでいるべきだ」なんて事は言わないし、個人の自由。けど、なんか最近自分の周りだとよく見かけるようになって肩身がせまいというか、もう少し自由になってもいいんじゃないかと思った。

 

 

 

引っ越ししに行って思った事

 この間、引っ越しの作業をした。正確には大学に通うための下宿を引き払うので荷物を片付けていたのだ。

 実家から下宿に2週間ほどいて作業をしていたけれども、いろいろと思ったことがあったので書いておく。

 

 まず、暇。もちろん引っ越し作業という大事なものがあるのだけれども、普段よりもやれることはだいぶ少なくなった。テレビは見れないし、冷蔵庫はリサイクルのため食材を保管できず料理はできない、PCもないなどなどいろいろと普段やっていることは身の回りのものに支えられているのだなあと実感した。当たり前のことではあるけども。暇なときはだいたい3DSでゲームをしていた。MHXを中心にやっていたけれども、「携帯」ゲーム機であることにだいぶ助けられた感がある。据え置きゲーム機は当然TVがないとできないが、今度発売されるnintendo swichはそのあたりを解決するみたいで、据え置き機でも助けられそうだ。携帯できる据え置き機となるとどっちかわからなくなりそうだが。

 

 次に料理ができないと案外レパートリーが少ないということ。上記にあるが冷蔵庫をリサイクルしてもらうために食材を保管できずにいた。ほぼ毎日近所のスーパーでおにぎりやらパンやら買ってしのいでいた。普段それほど料理をするタイプではないのだけれど、料理ができないというのは思った以上に日々の華がなくなる感じがした。

 

 車を持っていないというのも不便だった。一応免許は持っている。カラーボックスやワゴンなどもう必要なさそうなものを一度リサイクルショップに回収してもらおうと思っていたのだけれども、予約がいっぱいで自転車で持って行こうかと思ったが結局無理だった。予約が取れればリサイクルショップ側に来ていただいて回収してもらえるから、自分の見積もりの甘さだったのだけれども車にはものを運ぶという役割があることをすっかり忘れていた。

 

 最後は、筋肉質の兄さんはかっこいいということ。冷蔵庫と洗濯機をリサイクルに出す際に電気屋に回収に来ていただいたのだけれども、そのときに20代中頃ぐらいのお兄さんが2人やってきた。それで、2人で1個ずつ運ぶんだろうなーと作業を見ていたら1人1個ずつ持って行ったのだからびっくりした。自分が普段運動しておらずあまり筋肉もあるとは言えないのだが、家電をひょいと持ち上げて「手伝いましょうか?」と聞いても「大丈夫ですよ!」と爽やかな笑顔で対応してくださるお兄さん方を見ていたら、なんとなくああいったタイプの人たちが女性に人気が出ると言われてる理由がわかった気がした。頼りたくなるというか、包容力ありそうというか。営業スマイルでマニュアル通りだったとしてもあれは凄いというか、自分にはできないだろうなと思った。

 

 

 …日記記事になってしまった。前回の記事でもうすこしゆるくとは書いたものの日記にはしたくないと思っていた。個人ブログなのだからデマだとか意味不明の記事とかを書かなければ大丈夫ではあるのだろうけど、あまり日記めいたものは流したくはないというか…少しでも有益になりそうであればいいのだけれども。とりあえず、有益にこだわりすぎるとろくな事がないのでこれでよしとする。

あけましておめでとうございます。気づいたら2016年が終わってました。

 

去年は鬱になったり睡眠障害だったりで大変だったけど、今年は鬱を優先的に治せればと思います。ただしあまり焦らずゆっくりと。

 

あと、ブログに関しては文体を柔らかくしてみようと思う。ただ、ですますはあまり使わない感じで。淡々とした雰囲気を目指して書いていたけれど、それに囚われて筆が進まずということが多くあまり記事を書けずにいたのは防ぎたいところ。ネタがあまりないのもあったが。

心の中にいる子供を育てることにした

 1ヶ月ほど前に自分の中にまだ精神年齢が追いついてない部分があり、それに気づかなかったため苦労してきた部分が多かったのではと思うことがあったので書いておく。 

 

 表層部分にある自分のことを自分、と考えて今までの生きてきたが、1ヶ月ほど前に自分の奥にいるもう1人の自分がいるのに気がついた。幼児期の自分というべきか、子供っぽい心だった。自分でもなんといったらいいのかわからないし目に見えないが、とりあえずそう呼んでおく。

 

 

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

 

 

 どことなく自分の考えは幼い部分が多いと思ってはいたものの、気づいたきっかけは上の作品の中のあるシーン。そのシーンは親の機嫌を気にしすぎるがあまり自分の本心を無視してきたという場面。自分の本心を大切にしないでいたので、なにか思っても自分を否定する自分が現れてそれが毎日続くから、自分はダメな人間なんだと自尊心が低くなってしまうようなことが書いてあった。漫画形式で絵も入っていて説明してくれているのですごくわかりやすいのだが文章だとなんとも伝えにくい。かといって漫画の写真をとってあげるわけにもいかず…。

 他の人からはしっかりしてるだとか、真面目だとか評価を貰うことは多い。実際真面目な性格ではあるように思う。ただ、どこか違和感を感じていた。

 その正体が奥にいた自分だった。具体的には忘れたが、なにかもやもやしているときに実は心の奥で駄々をこねている自分を発見した。なんというか、奥の心と表層面の心の精神年齢がかけ離れているというか、そんなことに気がついた。実際自分は何かお願い事をされても、内心嫌だと思っていてもあまりはっきり断れず、押されてしまうと了承してしまうことは多い。我慢もよくしてきたと思う。他人の目を気にすることは多いし、このことはいろんな人に言われた。

 

 それからは心の奥で何か言ってるときは語りかけるというか、対話するようにはしている。何か言っていたら聞いてあげて強制したり黙らせようとはせず、納得するまで説得や説明をしたり、同調や心配をかけたりして、なにか成功したりやり終えたら褒めて大事にしようと思う。あと、とにかく否定したいだけの、根拠のない否定をする自分が現れたらできる限りそうしないように説得などはしてみようと思う。たぶん、攻撃されてばかりになるとだるくなったり落ち込んだりするのでこっちの方が重要かもしれない。

 

 書いていて多重人格なのでは?と思ったりもしたが、詳しいことはよくわからない。とりあえず、奥にいる自分には寄り添ってあげて、見守ってあげようと思う。

作品は私に生きる力を与えてくれる

 記事の通りではあるのだが、最近いろいろな制作物に触れている中で自分は創作物にずいぶんと助けられているなと思うことが増えたのでそのことについて綴っておく。

 一応。創作物というのは身の回りに溢れていて、今見ているPCやスマートフォン、机や住んでいる家なども、人が考えて作っているものだから制作物であると自分は考えている。ただ、この記事で自分が扱うものは本や漫画、ゲーム、音楽などそういったものが中心になる。

 

 まず生きる力を与えてくれるというものについてだが、3種類ある。

 

 1つ目はストレス軽減。これはわかりやすいと思う。なんとなくもやもやが溜まっていたりどうしても物事が上手くいかないときなんかはゲームをしたり本を読んだりして夢中になる。行き詰まっている考えを一度放置するというか、その考えを頭の中から空にしてくれるのだ。後で考えてみるとすっきりとした考えになっていたり、別の考えが浮かんだりして新しく糸口が見つかったりもする。何かに集中してそのことで頭をいっぱいにする、夢中になるというのはそういったごちゃごちゃした思考を整えてくれるように思う。

 それと、これもストレス軽減には入ると思いつつも若干軸が違うような気がするが、自分に同調してくれるというのもストレスを減らしてくれているように思う。鬱な気分の時には漫画を読む。活気あふれた内容のものではなく、どこか影を含んでるようものを読むと自分に重なって見えたり慰めて見えたりで、気分をゆっくりとだが落ち着かせてくれる。

 

 2つ目は得るものがあるということ。上記のことも何かを得るという点では同じだが、こう、時たま思い出したくなるような言葉や場面というのは生きている中で助けになってくれることは多い。登場人物の言葉を思い出して新しいアイデアを得たり、作中のやり取りを見て新しい知識、考えに触れるなど、あまり意識はしていないが気づいたら助けてもらっている。

 

  3つ目はこれからもこの作品がある限り自分の人生は生きる価値があるものだと思えること。これはtwitterでも見かけることではあるが、この作品の続きが見たいからこの先も生きていきたいと思えること。なんだか大げさな表現ではあるが概ねこれである。もちろん、その作品が終了したらすぐに生きるのをやめるかというとそういうわけではないし、その作品が終了しても他に楽しみにしている作品があればその作品の続きが生きる楽しみになる。来月にはこのシリーズの新作が出るからそれまでは生きてそれを楽しみたい、それまでは生きたいと思えるのだ。

 

 

 上記のことは作品を受け取り側に立ったときのことで、制作する側になったときはまた別の、力の源になるようなものがあると思うがそれは今回は扱わないでおく。

 

  

 

 

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

少女終末旅行 1 (BUNCH COMICS)

 

 ぱっと思いついた好きな作品だと上記の2点。

 星のカービィシリーズは幼少期から触れてきた作品だが、ロボボプラネットはお気に入りだ。世界観がシリアス寄りになりいつもの星のカービィとは少し毛色が違う。ラスボスはビジュアルが幾何学的な美しさがあり、曲も勇気をくれるようなもので、こういったアイデアが思い浮かび実現させられるスタッフさん方は尊敬する。

 少女終末旅行はWEB上で連載している漫画のひとつ。荒廃した世界をチトとユーの2人の少女が旅をするという内容。ほとんど人は見かけない、あとは消えゆくしかないような世界の中で、悲観せず生きていく。ただ、いずれ自分達も消えるということを受け入れてるような節目を見せてくれる場面があり、生や死、生命とはなにかという人が生きる上で基礎となるようなものに触れるシーンもあり、よく読み返している。

 

祭りの音がしんどい

 タイトル通りなのだけど、祭りがしんどい。自分が住んでいる地区は今週祭りがあって、太鼓の音や人の声がよく響いた。そんな時に限ってなのか、そんな時だからなのか身体がだるかった。

 

 特に太鼓の音がきつい。バイクの音でも思うのだが、肺を振動させるタイプの音は苦手で、イヤーマフすら貫通して聞こえてくるのだから横になっていても耳に届く。低い重低音というのは調子が悪い時にはきつい。

 

 まあ、これはイヤーマフとイヤホンで凌げるから大丈夫ではあるのだが、人の声も少し苦手で、元気ハツラツな掛け声や盛り上げるような声はしんどいときには聞きたくはない。

 

 祭りは前夜祭含めて3日しかないし、街の賑わいにはなるのだろうけど、静寂を好むような人や、平日の勤めや通学から休日に癒しを求める人には3日もある面倒なイベントなんだと思う。実際、ネットで検索をすれば祭りが嫌いという意見は沢山見られる。

 

 それに今の祭りはなんとなくだが、騒ぎたい人が騒ぐようなそんなイベントに見えなくもない。勿論、実感がないだけで地域の過疎化を防いだり、思い切り騒げる場所でガス抜きをしていたりという側面もあるのだろう。だが、伝統だからという理由で騒ぐことを目的にするのも違和感は感じるし、それなら伝統であるという理由ならばある程度のことは許されてしまう。騒ぐことが目的なら別の場面でもいいようにも思うし、新しくそれらしいイベントをつくるのもありだろう(そこでどう言われるかはわからない。それにガス抜きがイベントでしか出来ないというのも問題な気はする)

 祭りを廃止しろなんてことは言わないが、なんというか本来の目的を見失った、近所の祭りは目的のないイベントに見えてしまった。

 

発達障害が誤診だった話

 発達障害の内のADHD(注意欠如多動障害)と診断されていた自分だが、実家に帰省するに伴い病院を変えたところ、ADHDではなくうつ病だと診断された。

 

 正直、複雑だった。

 もちろん、障害は無いに越したことは無い。特に発達障害は脳の構造の問題で、先天性とされているため治すということは不可能。つまり一生その問題と付き合っていくことになる。

 それの心配が無くなった…というのは正確では無く、発達障害は白黒で分けれるものではなく誰しもが持ちうるものであるらしい。なので減った、と書いた方が正確だろうか。それにと、診断されてから考え込むようになったあの時間はなんだったのだと思ってしまう。そういった今の医学では完全な治療は難しいものを抱えつつも生きる人たちの経験や苦痛を数パーセントにも満たないかもしれないが考えることは出来たので、得たものはあった。

 ただ、やはり発達障害と診断されてから約1年間はこれからどうこの障害と付き合っていけばいいのか、社会的にこれから生きていけるのかと悩んで、大学の教授や相談員の方々に心配をさせてしまったのは、もしかしたら、誤診がなかったのなら無かったのかもしれないと心のどこかで考えてしまう。

 

 過去のことばかり考えても仕方がないのはわかるがそんなことを思う。

 ちなみに今はイフェクサーという薬を飲んでいる。薬のおかげなのか実家に帰って人と話せる環境に来たおかげなのかそれなりに回復はしたように思う。たまに虚無感に襲われる時はあるが。

 

 

 2017/8/22 この記事にアクセスされる方が多いようなのでどういう経緯で診断に至ったかをまとめました。

 

ymum.hatenablog.com