絵に対する不安を少し
ワンドロって企画(1時間で決められたお題に沿って絵を描くイベント)がtwitterにはあるんだけども、最近スランプ気味なこともあって参加していなかった。絵自体1ヶ月近くまともに描いてなかったのもあったけど。
バイト最中に絵が描きたくなったから帰ってすぐワンドロの企画に(遅刻にはなったけど)参加したら思ったよりも伸びて大体50いいね貰えた。普段は15くらいが平均だったんだけども岩を描くのがうまくいったせいかなんなのかその時は沢山貰えた。
それから過去作でボツになった絵を加筆しまくる形にはなったけども、なんとか絵を描くことができるようになった。バイトの最中になんで絵が描きたくなったのかはわからないけども、このまま描きたい感情がなくなりそうで怖かったからそこはよかった。
それで、いいねを沢山貰えたから制作がまた出来るようになったのはまずいんじゃないかなと思った。
褒めてもらってやる気が出るのは当然のことだと思うし、昔っからよくあることだったんだけども、このことは要は他の人からの評価によってやる気が変動したってことで、これから先趣味でするにしても仕事でするにしても他人の評価が続ける理由になってしまったときのことを考えたら続けていけれるのか不安になってしまう。趣味ならまだ辞めたくなったら辞めれるし休憩もできるんだけども、仕事となった場合はそうはいかないだろうし、仕事だから当然周りには商業レベルの人が当然の環境になって自分との比較なんてしたら落ち込むことは頻繁になりそうだし。
絵の方向性とかテーマとか構図とか決めるのにも苦労してばっかりで、それに加えて周りとの比較をしてたらほんとに何もできなくなるんじゃないかと思った。
理想は自分の絵の評価基準は特になくって、過去の自分とも他の人とも比較をせずに毎日絵を描けれるようになれればいいなあと思う。
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最近どんどん可愛くなっていく漫画。同人ゲームを高校生がつくる話で、絵描き、プログラマー、プロットなどの人たちがそれぞれ特有の悩みを持っていて凄く好き。
作中で主人公の本田珠輝に対して飯野水葉、通称はーちゃんがイラスト勝負を挑むシーンは正直完全な比較ってできるの?と思ったし勝っても負けてもお互い得しない勝負なのでは?とも思った。フィクションだから言う必要はないというのはナンセンスかもだけど、2人には絵の比較をする思考は身に付けないで自分の理想を追求して欲しいなあと思う。
最近調子が悪い
最近いろいろと調子が悪い。
絵はとくに調子が悪くて絵を描こうと思ってもアイデアが浮かばない状態が、絵を描くことそのものが嫌な風になってしまった。これはまずいと思って、既存の漫画を自分の絵柄に変換して描くみたいなことをやってしのいでいる。
絵に自信が持てなくなったからかこの先どうやって生きていこう、これからどうしょうかというようなこともずっと考えてしまっている。うつ病はだいぶ回復したはずなんだけども、バイトを始めたせいかまた悪化しているような気がしないでもない。バイトをやり始めていろいろあるけれど、これがずっと続くのも嫌だなあと考えてしまう。だったら今までと違うことをすればいいんだろうけども。
あとこの間熱を出した。家族内で熱が流行ったんだけども自分に移ってしまった。熱は2日で引いてくれたけども、鼻水が最近はずっと出ている。
〇〇するべきじゃなくて〇〇したら(もっと)良くなるよと言ったほうが気楽になれるんじゃないだろうか
今回の記事を簡潔に言うと「〇〇するべき」という言葉、語尾は自分は好きじゃないですという内容。
〇〇するべきというタイトルをよく見かけるようになった。
グーグル検索での検索結果では特に出てくる。次は書籍でその次はテレビだろうか。社会人なら守るべきマナーだとか、日本人なら読んでおくべき〇〇の書籍だとかよく見かける。WEBに限った話ではなく、本のタイトルとしても「べき」という言葉はしばしば見かけるし、日常の会話や大学の講義でも聞くことはある。
押し付けに思えてくる
正直この「べき」という言葉は押し付けがましく思える。
これをやっておかないと後々置いていかれるけど大丈夫なの?とかこれをやらない奴はそれ名乗る資格ないよねといったような不安を煽るような、基準、0からマイナスしたような意味を感じてしまう。
使っている側からしたらそんな意味は含めてはいないとは思う。これをやっておいたらすごく楽になるからやっておいたほうがいいぞだとか、これを持っておくとすごく楽になるぞだとか、そういう意味合いなんだろう。けれども、この「べき」という言葉がつくだけで上記のような不安を煽るようなことを自分は感じ取ってしまう。
そもそも全く同じ価値観の人間は存在しないし、すべての方法がすべての人に通用するとは限らない。共感する部分が多くあったとしても共感できない部分というのは多少なりとも存在する。そこが存在する限り無理に考えや主張を押し付けようとは自分は思えない。
価値観ではなくルール、規則の場合は別の考え方になるだろうが、共通する部分は同じように思う。集団で過ごす以上全員が好きに動いていたら共同体として動くことは難しくなるためルールというものがある。だからこれは〇〇するべきだという意見を聞くことはある。そういった場面ならば理にかなっているとは思うが。たまに何故そうすることをせねばならないのかを関係なしに、ただ強制する人がいる。まあ、これは言葉というよりもその人のやり方に問題があるように自分は思えるが、ただ強制するというのはお互い損だろうし、相手に説明する必要があるだろう。
選択肢を狭める
それに〇〇するべきだ、となったときには「この選択肢以外は有効ではない」という意味合いに自分は聞こえてしまう。考えが捻くれているような気はするものの、そう聞こえてしまう。他の選択肢は有効とは思えないということになり、選択肢は一つになる。そうでない人からみたら他の選択肢も浮かぶのであろうが、この言葉がつくだけでその考えを浮かばせる余裕もなくしてしまうように思う。
思ったよりも自分がこの言葉が嫌いな理由がなかったけれどもだいたいこんなところだと思う。
もちろん、「だからこのべきという言葉は使わないでいるべきだ」なんて事は言わないし、個人の自由。けど、なんか最近自分の周りだとよく見かけるようになって肩身がせまいというか、もう少し自由になってもいいんじゃないかと思った。
引っ越ししに行って思った事
この間、引っ越しの作業をした。正確には大学に通うための下宿を引き払うので荷物を片付けていたのだ。
実家から下宿に2週間ほどいて作業をしていたけれども、いろいろと思ったことがあったので書いておく。
まず、暇。もちろん引っ越し作業という大事なものがあるのだけれども、普段よりもやれることはだいぶ少なくなった。テレビは見れないし、冷蔵庫はリサイクルのため食材を保管できず料理はできない、PCもないなどなどいろいろと普段やっていることは身の回りのものに支えられているのだなあと実感した。当たり前のことではあるけども。暇なときはだいたい3DSでゲームをしていた。MHXを中心にやっていたけれども、「携帯」ゲーム機であることにだいぶ助けられた感がある。据え置きゲーム機は当然TVがないとできないが、今度発売されるnintendo swichはそのあたりを解決するみたいで、据え置き機でも助けられそうだ。携帯できる据え置き機となるとどっちかわからなくなりそうだが。
次に料理ができないと案外レパートリーが少ないということ。上記にあるが冷蔵庫をリサイクルしてもらうために食材を保管できずにいた。ほぼ毎日近所のスーパーでおにぎりやらパンやら買ってしのいでいた。普段それほど料理をするタイプではないのだけれど、料理ができないというのは思った以上に日々の華がなくなる感じがした。
車を持っていないというのも不便だった。一応免許は持っている。カラーボックスやワゴンなどもう必要なさそうなものを一度リサイクルショップに回収してもらおうと思っていたのだけれども、予約がいっぱいで自転車で持って行こうかと思ったが結局無理だった。予約が取れればリサイクルショップ側に来ていただいて回収してもらえるから、自分の見積もりの甘さだったのだけれども車にはものを運ぶという役割があることをすっかり忘れていた。
最後は、筋肉質の兄さんはかっこいいということ。冷蔵庫と洗濯機をリサイクルに出す際に電気屋に回収に来ていただいたのだけれども、そのときに20代中頃ぐらいのお兄さんが2人やってきた。それで、2人で1個ずつ運ぶんだろうなーと作業を見ていたら1人1個ずつ持って行ったのだからびっくりした。自分が普段運動しておらずあまり筋肉もあるとは言えないのだが、家電をひょいと持ち上げて「手伝いましょうか?」と聞いても「大丈夫ですよ!」と爽やかな笑顔で対応してくださるお兄さん方を見ていたら、なんとなくああいったタイプの人たちが女性に人気が出ると言われてる理由がわかった気がした。頼りたくなるというか、包容力ありそうというか。営業スマイルでマニュアル通りだったとしてもあれは凄いというか、自分にはできないだろうなと思った。
…日記記事になってしまった。前回の記事でもうすこしゆるくとは書いたものの日記にはしたくないと思っていた。個人ブログなのだからデマだとか意味不明の記事とかを書かなければ大丈夫ではあるのだろうけど、あまり日記めいたものは流したくはないというか…少しでも有益になりそうであればいいのだけれども。とりあえず、有益にこだわりすぎるとろくな事がないのでこれでよしとする。
心の中にいる子供を育てることにした
1ヶ月ほど前に自分の中にまだ精神年齢が追いついてない部分があり、それに気づかなかったため苦労してきた部分が多かったのではと思うことがあったので書いておく。
表層部分にある自分のことを自分、と考えて今までの生きてきたが、1ヶ月ほど前に自分の奥にいるもう1人の自分がいるのに気がついた。幼児期の自分というべきか、子供っぽい心だった。自分でもなんといったらいいのかわからないし目に見えないが、とりあえずそう呼んでおく。
どことなく自分の考えは幼い部分が多いと思ってはいたものの、気づいたきっかけは上の作品の中のあるシーン。そのシーンは親の機嫌を気にしすぎるがあまり自分の本心を無視してきたという場面。自分の本心を大切にしないでいたので、なにか思っても自分を否定する自分が現れてそれが毎日続くから、自分はダメな人間なんだと自尊心が低くなってしまうようなことが書いてあった。漫画形式で絵も入っていて説明してくれているのですごくわかりやすいのだが文章だとなんとも伝えにくい。かといって漫画の写真をとってあげるわけにもいかず…。
他の人からはしっかりしてるだとか、真面目だとか評価を貰うことは多い。実際真面目な性格ではあるように思う。ただ、どこか違和感を感じていた。
その正体が奥にいた自分だった。具体的には忘れたが、なにかもやもやしているときに実は心の奥で駄々をこねている自分を発見した。なんというか、奥の心と表層面の心の精神年齢がかけ離れているというか、そんなことに気がついた。実際自分は何かお願い事をされても、内心嫌だと思っていてもあまりはっきり断れず、押されてしまうと了承してしまうことは多い。我慢もよくしてきたと思う。他人の目を気にすることは多いし、このことはいろんな人に言われた。
それからは心の奥で何か言ってるときは語りかけるというか、対話するようにはしている。何か言っていたら聞いてあげて強制したり黙らせようとはせず、納得するまで説得や説明をしたり、同調や心配をかけたりして、なにか成功したりやり終えたら褒めて大事にしようと思う。あと、とにかく否定したいだけの、根拠のない否定をする自分が現れたらできる限りそうしないように説得などはしてみようと思う。たぶん、攻撃されてばかりになるとだるくなったり落ち込んだりするのでこっちの方が重要かもしれない。
書いていて多重人格なのでは?と思ったりもしたが、詳しいことはよくわからない。とりあえず、奥にいる自分には寄り添ってあげて、見守ってあげようと思う。
作品は私に生きる力を与えてくれる
記事の通りではあるのだが、最近いろいろな制作物に触れている中で自分は創作物にずいぶんと助けられているなと思うことが増えたのでそのことについて綴っておく。
一応。創作物というのは身の回りに溢れていて、今見ているPCやスマートフォン、机や住んでいる家なども、人が考えて作っているものだから制作物であると自分は考えている。ただ、この記事で自分が扱うものは本や漫画、ゲーム、音楽などそういったものが中心になる。
まず生きる力を与えてくれるというものについてだが、3種類ある。
1つ目はストレス軽減。これはわかりやすいと思う。なんとなくもやもやが溜まっていたりどうしても物事が上手くいかないときなんかはゲームをしたり本を読んだりして夢中になる。行き詰まっている考えを一度放置するというか、その考えを頭の中から空にしてくれるのだ。後で考えてみるとすっきりとした考えになっていたり、別の考えが浮かんだりして新しく糸口が見つかったりもする。何かに集中してそのことで頭をいっぱいにする、夢中になるというのはそういったごちゃごちゃした思考を整えてくれるように思う。
それと、これもストレス軽減には入ると思いつつも若干軸が違うような気がするが、自分に同調してくれるというのもストレスを減らしてくれているように思う。鬱な気分の時には漫画を読む。活気あふれた内容のものではなく、どこか影を含んでるようものを読むと自分に重なって見えたり慰めて見えたりで、気分をゆっくりとだが落ち着かせてくれる。
2つ目は得るものがあるということ。上記のことも何かを得るという点では同じだが、こう、時たま思い出したくなるような言葉や場面というのは生きている中で助けになってくれることは多い。登場人物の言葉を思い出して新しいアイデアを得たり、作中のやり取りを見て新しい知識、考えに触れるなど、あまり意識はしていないが気づいたら助けてもらっている。
3つ目はこれからもこの作品がある限り自分の人生は生きる価値があるものだと思えること。これはtwitterでも見かけることではあるが、この作品の続きが見たいからこの先も生きていきたいと思えること。なんだか大げさな表現ではあるが概ねこれである。もちろん、その作品が終了したらすぐに生きるのをやめるかというとそういうわけではないし、その作品が終了しても他に楽しみにしている作品があればその作品の続きが生きる楽しみになる。来月にはこのシリーズの新作が出るからそれまでは生きてそれを楽しみたい、それまでは生きたいと思えるのだ。
上記のことは作品を受け取り側に立ったときのことで、制作する側になったときはまた別の、力の源になるようなものがあると思うがそれは今回は扱わないでおく。
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ぱっと思いついた好きな作品だと上記の2点。
星のカービィシリーズは幼少期から触れてきた作品だが、ロボボプラネットはお気に入りだ。世界観がシリアス寄りになりいつもの星のカービィとは少し毛色が違う。ラスボスはビジュアルが幾何学的な美しさがあり、曲も勇気をくれるようなもので、こういったアイデアが思い浮かび実現させられるスタッフさん方は尊敬する。
少女終末旅行はWEB上で連載している漫画のひとつ。荒廃した世界をチトとユーの2人の少女が旅をするという内容。ほとんど人は見かけない、あとは消えゆくしかないような世界の中で、悲観せず生きていく。ただ、いずれ自分達も消えるということを受け入れてるような節目を見せてくれる場面があり、生や死、生命とはなにかという人が生きる上で基礎となるようなものに触れるシーンもあり、よく読み返している。