どうしようもないことには「認めさせる力」が必要なんじゃないかと思った話

 

 

  自分が発達障害だと診断されてから1年ほどが経過しただろうか。あれから様々なことを考え、調べてきた。ADHD自閉症を持つ人々の特徴はどのようなものなのか、その原因はなんなのか、これから自分は生きていけるのだろうか、生きるにしても満足できる生き方をするにはどうすればいいのか…。

  ネットや本で障害について調べていく中で今様々な「障害」と呼ばれているものが問題提起されていることもわかった。LGBTサイコパス、パーソナリティ障害などなど。調べるといっても、多少かじっただけの自分が持っている知識は誤りだらけだとは思うし、実際にそういった方々とわかっている人に会ったことも無いから現実味の欠ける知識でもあるようにも思う。

 

 ネットでも本でもそういった人達に対して否定するような意見は見かける。特にネットは、ネットである以上そういった情報は多く見られる。自身に対して否定的になっていた時期に読むことが多かったせいか、ネガティブな気持ちになってしまったが、その中で「認める」ということの持つ力は重要なのではと考えるようになったので綴る。

 

 

きっかけがなければ理解できない

 これらの考え方や捉え方に関する障害、そして脳に関する障害というのを意識するようになったのは発達障害を診断されてからだ。それまでは外からやってくる情報(例えばテレビ番組の特集や、学校の講義など)でしか得ることが無かったが、それまでは一切知らなかった。

 ネットにこういったことはいくらでも転がっている。だから自分のように調べようと思えばいくらでも調べることはできる。ただ、問題なのは一般人と呼ばれる人々がそれを調べようとする、いや、知ろうとする意識があるのかとういうことなのである。

 人は知らないものや出来事に対しては警戒心を持つ。だから知るきっかけが無いものについてはいつまでもそれに関する知識が無い。その状態で自分が知らない、理解できない存在に出会ってしまったら保身のため遠ざかろうとする。自分の心身を守ろうとしているのだから分からなくは無い。

 

 

 「世の中」が求める「普通」とはなにか

 一般人というのは人によって見解が異なる非常に曖昧な言葉のように思う。普通に進学ができて、普通に結婚をして、普通に子供が生まれて、普通に老後を過ごすことができて普通に老衰で亡くなる。ライフステージに関することだけではなく、普通に友人関係を築けて、普通に異性との関係も築ける。ほかにも普通に食べ物を食べれて、普通に動物と触れ合えることが出来て…。

 

 自分にはこの「普通」というものはあまりにもハードルが高いように思う。自分の場合、「自分が定義する世の中」にある「普通の人が出来て普通では無い自分にはできないこと」のひとつとして、時間管理ができないということがある。時間管理というのは今の日本では当然のように求められる能力だ。

 義務教育の時から、教えられなくとも訓練されることだ。自分の小学校時代のスケジュールを確認してみると、朝の6時に起床し、6時半までに朝食などを済ませ、7時までに集団通学の集合場所に行き、8時までに学校に着き、そこからは40分単位での授業があり…とよく管理されていた。登校までの時間はある程度変動があってもよかったようには思うが、学校に着けばあとは学校の教師やチャイムが時間管理をしてくれる。ただ、問題はこれ以外の時間だった。当時は母親がいろいろと世話をしてくれたおかげか、それほど大変なことにはならなかったが、朝の支度であれがないこれが無いと言ってほぼ母親を怒らせていた。夏休みの課題も順調に行けば余裕を持って終わらせれていたが、興味を持てないものに対してはほぼ終わりの頃にまとめて終わらせていた。

 今は朝起きることが難しいということであまり満足できていないし、休学になってしまった。上記の小学生時代から朝は苦手で、学校がある日はほぼ両親に起こしてもらっていたが休日は昼まで寝ているのが日常だった。午前中に起きれば驚かれていた位だ。それが今頃になって問題になった。

 朝起きることができずにいるのは発達障害由来の時間管理能力が原因と病院の医師には言われた。発達障害はある程度カバーできても、健常者とまったく同じ程度まで能力を培うには難しいそうだ。念を押しておくが「ある程度は」だ。「完璧に」ではない。

 

 

 

認める力

 世の中で求められる「普通」。これを遂行できる能力がある前提で普通の世の中は成り立っている。集団意識が強いと日本は言われており、その普通のレールから外れてしまえば困難に直面してしまう。そしてそれを普通と呼ばれる状態に変えていく、治すことが出来ないのであれば別の道に進むしか無い。

 そして、道を選び、歩を進めようとしたところで拒む存在がある。他人だ。この別の道に進みことは難しいことだ。普通ではないのだから、世の中で通じるノウハウは通じないし、それに関する情報も少ない。成功する可能性もあるわけだが、失敗のリスクは高い。ノウハウがある普通の世界に浸っている人たちから見たら別の世界に行こうとすることは危険極まりない行為でそれを止めようとする。それは彼らにとっての安心につながるからだ。本人はそこにいるからこそ、不安を覚え、危機感を感じるのだ。いくら対処しても不安を拭えない場所に居座り続けるのは、余計に自分を追い詰めることを知っているにも関わらず。しかし、本人以外の人たちはそれを知らない。

 自分自身に対しても同じことは言える。自分が何かしらの欠点を持っていたとしても、まずそれを持っているものだと認識しない限り問題解決には至らない。いくら否定をしたところで無くならないものはそこにあり続けるのだ。認めようとしない自分にも認めさせると途切れた道からルートを変更することができる。

 自身が折れてしまいその場に居続けても変化を起こせないのであれば、変わらないのだから、誰かは現状に不満を持ってしまうし、ストレスも不安も溜まる。共存を選択するならば、変化を起こさせ、認めさせるしか方法は無いように思う。